一つのアイディアを熟考して、一つの形にしていくプロセスで、アイディアそのものの実現を目的とするのか、そこをスターターとして、プロセスを構築するのかという捉え方の違いは大きい。
プロセスのスタートとして、改変し、構築し、解体し、組み立てる、そうすることで一つのアイディアは大きな可能性への扉になりうる。
全てのグループワークにおいて言えることではないと思うが、考える力が必要とされる創造的なワークについて言えば、これは間違いなく後者の方がよりよいものになりうる。
オープンソースのソフトウェア開発においては、誰かが起点となったアイディアに対して、グループの他者がその上にコードを追加、修正をして、改変して、よりよいものにしていく。可能性として、つけたし過ぎてゴシックなものが出来上がってしまうこともあるかもしれない。ただ、それもプログラムの参加者の絶対数がある程度いて、公平な権限の上で発言のやり取りがあり、それらのリアクトを適切にファシリテートをしていくことも不可欠である。
この理論は過去の左派の運動のような批判的に実証するというやり方ではなく、肯定的に検証していくということだ。これはただ単純に肯定すればいいということでもない。肯定しつつ、それが正しいのかどうかというニュートラルに近い視点で検証する。これは思いの外難しい。批判は簡単である。穴を見つければいい。逆にただの肯定も簡単だが、肯定する要因を説明するのは存外に難しいのだ。
僕は主に数字のデータ化していろいろな物事を扱う。
人としての意識や感覚すら数値化しようとしてるような気さえする。
人は社会的な動物で社会は理性で構成されているが、そもそもは感情的な動物である。
理論の裏には情が潜んでいるものだ。理論的に正しいことだけで、社会は動いていない。
感情は理論と違い、こうだからこうという数値的変化をするものではなく、カオスだ。
常に一つの感情には複数の感情が絡みあっているものだ。
人とはそういうものだ。そういう人間が構築している社会は当然カオスの部分を内包している。
より多くの人をプロセスに関わらせ、アイディアをより深化することで、カオスの内包を行う。
これは一人で組み上げられたものでは難しい。
ある種の社会的な仕組みを作ろうとする場合、カオスの部分がなくてはいけないと思う。
カオスは大きすぎると仕組みを壊してしまうし、カオスの部分がないと仕組みは窮屈で継続が難しいものになってしまうものだ。
まして、思想や方法論を単一化、統一化していくことで組織の仕組みは簡単になるが、そこに人が人としてはいる余地が少なくなる。
人が人として入る余地があり、かつ、そこに自浄作用をも含んだシステムの構築を今している。
このシステムは最初のシステム構築が一番慎重かつ丁寧に、またスピーディに行わなくてはいけない。
時間をかけるとスターターの役目は果たせない。ある種の感情的な加速度を作り、そして、メンバーが追いつくのを待つ。これを繰り返し、追いつけない部分に穴があり、追いつける部分はシンプルな仕組みに変えていくことができる。
そのために、シンプルで強いコアシステムを構築しなくてはいけない。コアにカオスは必要ない。カオスが引き付ける磁石のようなシステムを作ればいい。
単純で分かりやすい理念があればいい。
そして、その理念に基づいたミッションは小ミッションの積み重ねの先に見えるもので、蜃気楼のように近づかないが遠ざからないもの。そして、小ミッションは達成可能だろうという見通しのたつもの。
この小ミッションが都度更新され、常に新しいミッションに基づいた小ミッションを構築できるような仕組みを作らなくてはならない。
たとえば、googleの場合、ミッションは簡単だ。「検索で情報を整理する。」
このミッション達成のためには、世の中にある情報一つ一つに対して小ミッションが構築される。
結果、延々と小ミッションが組み上げられ、場合によっては自らが作った情報に対しても小ミッションが作られる。
一つの結果が次のミッションを生む仕組みがあれば、その作られていく世界は常に更新される世界観に基づいている。
現在、ぼくが関わっているミッションは逆で情報を集積してカオス化することがスタートラインになる。
それらを既存のシステムにより、自動的に整理していく。
既に情報を整理するシステムは出来上がっている。そこに放り込むための情報は溢れているが、そこに視点がまだないだけなので、視点が集まる仕組みを作ればいいだけのことだ。
コミュニティが崩壊した現在は私的な利益にフォーカスがどうしても向く状態である。
自分にフォーカスすることで、自らの利益を削ぐ状態になっている。
自分へのフォーカスを周囲に向け、公共益について考えることで、ちょっとしたことから社会の見え方は変化するし、また結果的に自らの利益にもなる。
消費型の一方通行な社会の仕組みから、循環型のシステムを資源以外の部分でも考えていかなくてはいけない。