ここのところ、「悪いなぁと思って言えなかった」ということをよく聞く。
本当によく聞く。大概は仕事に関してのことなのだけど。
お金というのは絶対的な価値なんてないと僕は思ってる。
そして、お金で解決できることだけではないはずだ。
金銭の授受はお互いの合意の上であり得る金額で行われる。
だけど、ここには形のない敬意だとか、次はもっとなんとかできないかという思いというものも重要な要素だと思う。
無きゃないなりに相談をすればいい。あるならあるときに言ってくれればよい。
そういうもんだ。
さて、なんでそこから芸術の社会貢献の話になんだよ。っていう話なんだけど。
社会の状況としては、消費型経済はもう20年くらい前に崩壊している。それ以降は過去の遺産を食い潰して暮らしているのが、現代の僕たちだ。
社会状況が厳しいときに重要な力になるのは、芸術という分野のプリミティブな力だ。
プリミティブな力というのは、表現するという根源的な欲求に訴えかける何かだ。
僕は技術屋さんだと自分では思ってる。
あくまで表現者ではない。
その表現者の持つ何かを補填するために存在するのが僕のような存在だと思う。
本来は表現者の補佐をするための存在なので、その裾野は広ければ広いほど仕事の可能性が広がっていく。
ここに最初のことが繋がってくる。
表現者が表現をするための土壌が育っていない現状で表現者が潤沢な作品創作の時間は持てない、また良い表現はなんらかの2次的な作品を生む。直接的な作品ではなくとも、それが創作への礎になることもある。
この礎に成るべき部分の構築が実際出来上がっていない。
多くの人に理解や共感を得る作品を作ることだけが重要なことではない。少数でも響くものを創作することも極めて重要だ。先鋭的で実験的なことを繰り返して行くことも大事ば要素なのだから。
それらを考える時間や場所をとるためには多くの時間や知恵が必要だ。当然だが、実行に移すための技術もいる。
こういう時だからこそ、どういう形で協力が可能なのかというポイントを見つけることがとても重要なのではないだろうか。
芸術は表現をするという根源的な欲求に訴求する分野だ。
芸術を見る目を養うというのは、情報を知識化し、教養まで高める上でなくてはならない要素だ。
現代の日本には全国に均質化した情報が溢れている。机の前に居るだけで自ら検証していないデータだけなら、どこでも手に入る。誰かの知識という情報もだ。
だが、これらはただの情報でしかない。
いうなれば実体のないお化けみたいなもので、情報を噛み砕いて知識として腑に落とすことで、それは知識となる。自分に必要な知識をある程度自由に扱えるようになって、教養となる。
これらは情報を詰め込むだけでは、その段階までは進めない。
その先に、新しいことを考えるという
芸術が社会に貢献できるのかといえば、それはできる。
そのために良質なものだけあればいいという考え方が多くある。
良いものしか見たくない、と。
だが、そういうことでは社会貢献できるレベルの作品は多くは生まれない。
こういうことの数字のデータは簡単だ。
たとえば、野球を例に挙げよう。
野球というスポーツがプロとして成立するのは、まず競技人口の多さだ。
ちょっと参考になる数字が見つからなかったので、硬式野球だけに限定した場合。
193,681人が競技人口である。(高校生以上のチームで硬式野球連盟に加入している分だけで)
840人がそのうちのプロ野球選手である。
2005年の時点のデータなので、データとしては古いが数字が挙げたいので、これで勘弁してもらいたい。
こんだけの裾野があり、かつ、それらが趣味のレベルで競技をするということで、プロが支えられているのだ。
そして、この中でプロになれる道以外の貧弱なチームは存在価値がないのか?
答えは否である。それらも裾野を支えるという意味で必要なのだ。
なぜか芸術家はこの部分に理解がある人が少ない。また、そこにお金としての価値しか見出さない似非芸術家の多い。
この点に関して言えば、ちゃんと裾野を広げるという意識を持つのではなく、自らの生活を支えるためだけに利用している人の多いことも嘆かわしいのだが。それちょっとここでは置いておく。
芸術活動は人の生きるうえで意味を持たせるために必要なことであると僕は考える。
その社会を支える一部分を担っているという意識を、もっと芸術に関わる人々は意識したほうがいい。
そして、それが独りよがりの表現なのかどうかという精査をすることについて、忌憚なく人を頼るべきだ。
僕は仕事を選んでしている。貢献できるのか、人としてのよさを持つのか、自分への還元されるものはあるのか。これらのことを重視して仕事を選んで暮らしている。
ま、別に聴いてみたいことややってみたいことを誰にでも言ってみることはとても重要だ。
それは仲間を生む力になるし、創作の土台を作るのに必要な素材になる。
もちろん、話す相手を選ぶことは大人の作法なので、当たり前という前提においてであるけど。
そうすることで、知識は共有され、社会の教養が養われる可能性が生まれる。
自分で抱え込んで何かを作ることが美しいように思われるのかもしれないが、何かを積み上げるには支援が必要だ。一人で持ち上げられるものと二人で持ち上げられるものの量は圧倒的に違う。
一人で持ち上げる意味があるということもあるかもしれない。
だが、それについてもそれはただの一人よがりだ。
社会と関わることでしか芸術は評価されない。
評価されない芸術は存在しないのと変わらない。
目に見えない、触れられないものが存在したとして、その認知を行わなければ、それは存在しないことと変わらない。創作表現であれば、なおのことだ。表し現すのが表現だ。認知されない表現はその存在を図る意味すらない。
世に出すためには多くのエネルギーと力が必要だ。
そこで、僕がもつ力が必要であれば、僕が認めれば、そこに力を注ぐことに一切の躊躇はない。
だから、とりあえず言ってみればいい。困っていることの解決の鍵に近いものを持ってるかもしれないし、持ってる人を知っているかもしれない。
そこに対価が発生するのであれば、それはお互いで決めればいい。
対価はお金である必要ではない。
未来の可能性がもらえるのかもしれないし、人のつながりかもしれないし、次の仕事なのかもしれない、価値になるものは僕サイドから見てもたくさんの可能性が見えている。それが手に入るなら価値というものはいくらでも創造できる。それこそ無限の可能性がある。
お金は重要だ。だけど、それで人は貧しくこそなれ、豊かにはならない。
芸術はそれを人に気付かせる可能性を持つ、それに社会が気付いたときに、新しい価値が生まれる。
新しい社会の仕組みが生まれる。そこには新しい糧を売る仕事が生まれる可能性もある。
それが次の社会の形なのかもしれない。