演劇の形態としては、よくあるシチュエーションコメディでファルス(笑劇)というジャンルのお芝居でした
俳優たちの一部はとてもがんばっていた。
その周りが何一つないなかで、よくがんばったな。という印象です。
ただ、全体の印象はコメディなのに笑えるところが本来的な意味で言えば何もない。
もっとも良くないであろうという点は芯がないということ。
この作品の核になる部分はなんなのかというコンセプトがまったくない。あったとしても伝わってないコンセプトは無いの同じである。
これがないシチュエーションコメディは身内笑い以外の面白さというものは何も出てこない。
この話は主人公がしていた、している行為が結果として事態をより最悪なものにしていくというものだが、その芯にくるべき主人公が弱い。俳優の技量云々ではなく、きちんと演出されている印象がない。
簡単に言えば俳優たちが出来ることを並べてみました。という言い方も出来るかもしれない。
キャロル、ハロルド、クレアに関して言えば、彼らは主人公に対しての愛情や思いを丁寧に組み上げる作業をしているが、それに対して主人公がどうあるのかがない。
電気工事士もその役割を飛び道具ではなく、きちんとその役割を果たしていたように思う。
もっとも重要な停電による暗い世界と明るい世界の逆転がこの作品の醍醐味であり、この一点を中心に物語の世界観を構築している作品であるが、それが何の効果もない形で行われていた。
暗闇の演技については、コントにすら及ばない程度の動きであり、暗闇のリアリティもなく、暗闇であるはずのところでの異化した表現も見られない。見えてるのに見えてない世界を構築するという挑戦がない。
演技についてもそうだし、音楽、明かり、舞台についても同じことが言える。
舞台上の俳優同士のコミュニケーションはアクションを発する人間ではなく、それに対しての受け手のアクションにより、関係性や状況が伝わる。この受け手になるのは主に主人公なのだがまったくアクションが見当はずれのアクションをしている。全般として、主人公のアクションは奇妙なものであり、アクションが連鎖していない。この手のシチュエーションコメディは特にアクションがきちんと連鎖することが重要な状況の積み上げに繋がるのだが、主人公がその連鎖を断ち切ってしまうために状況の積み上げが行われない。コメディでは一発芸的な面白いことを繰り返しても、それにはなんの意味もない。しかもリアクションがずれていればずれているほどに戯曲に描かれている状況の悪化が観客に見えてこない。
また、観客に状況の悪化を印象づけることで、それがフォアシャドーとなり、いつ、それが破綻し、より悪い状況に主人公が追い込まれていくのかということが観客をより作品に引き込む要素となる。
しかし、これはまったくない。
その全ては演出にコンセプトや意図というものがないということに発しているのではないだろうか。
非常に場当たり的な作品であると思う。
その他のスタッフワークについてだが、
セットのひどさは驚嘆に値する。
まず、絵がいらないと思う。芸術家である主人公の部屋であるということの表現なのであろうが、絵が汚すぎるのが気になってしまい、現代美術的な素養もなく、ただ空間を汚しているだけであったと思う。
壁のパネル、ドア、手すりなどのセットに関しても、作りの汚さが目立ちすぎてしまい、必要性が見えない。
別になくてもいいのにある。これは今後技術的な研鑽を行って欲しいところである。
全般的に全てがゆがんでいたり、そのゆがみに意味や意図は感じられない。
ただあるものをたてて見ましたということにしか見えない。
具象のセットであるにも関わらず、抽象的なセットの構造もそれを助長している。
小道具のソファや調度品に関しては、あまりにも説明に対して見合ったものが並んでいるとは思えない。
これであれば、無くてもいいのではないかということすら感じた。
これもあるものそろえられるもので選んでみましたという手抜きが見える。
完全に出来ないのであれば、それを埋めるサインはなんなのか、そこに置かれるもので成立するもの何なのかということをもう一度考えるべきだ。
明かりは全体的に、暗闇と明るさの逆転という点が作品の肝になっているのに、まったくその意図を組んでいない。本火の使用までしているのであれば、その火だけで見せるということもあっていいかもしれかなかったと思う。実際それでは暗いのだが、作品の中で明かりがついている(暗い明かり)になる時間は総じて長くない。
余計なことをせずに何もしない明かりというのもありではないだろうか。
また、停電の明かり(明るい明かり)に関して言えば、余計な明かりが多い。見えるということを主眼に置いたときに当てるべき場所はずれている。
壁に明かりが当たり、前の人の明かりが暗ければ、画面のフォーカスの基準は壁の明るさになる。
そうした場合、俳優が見えない。また、戯曲のコンセプトは照明ありきであるにも関わらず、照明にコンセプトがない。ミニマムで見せていい作品に余計な明かりを入れることで焦点はぼやけてしまい、意味不明な明かりが出てくる。
テクニカルなことだが、床へのあかり、壁への明かりが明るすぎるため、部屋が暗いということも分かりにくい。これはマッチなどがついた時に全体が明るくなるということで逆転の構造が崩れてしまっている。
なんでもかんでも明るくする必要はない。それがなんでもかんでも明るくすることで処理してしまっている。
テクニカルとしての研鑽も大事だが、重要なのは作品、戯曲が何をもとめているのかということに対しての考察がないのがとても大きな問題。
音響に関しては出音事態は特に何も問題はない。ただ、どこからの音なのか、その音が入る意味合いがあるのかということに対しての意識がもっとあってよかったのではないのだろうか?
衣装に関しても、ありものを着ているという印象は拭えない。キャラクターが押さえるべき特徴が何もない。
本当に選びに選んだ一着であったのかという点がおきざりにされている。
コンセプトなしで衣装を着ているのだなという印象がある。着たいものを着ているとも言えるかもしれない。
全体的に作品を作りあげていくという上で何が必要なのか、という研鑽が全体にない。
団体として見せる作品をどういうクオリティであるべきなのかということをもっと真摯に向き合う時間が必要なのではないだろうか。
また、責任も覚悟も見えない形での作品づくりは、若さによる自慰的な作品を見るよりもよくない。
自慰的な作品はそれでも何か伝えるべきものを発散する身体が見える。
場当たり的なものを並べても、何か伝えたいこと伝えるべきものの発散おきない。
今回の「ブラックコメディ」はその見本のような作品であるということも言えると思う。
ありものを並べて、覚えた台詞を言うのは演劇ではない。ただのやったことの発表会であり公演といったもので断じてない。
今後、どういった研鑽や努力を積み重ねていくかが見物であるという見方もできる。
変な話、これ以下というものは発表するという状況にすらないとすら思える。丁寧に基礎からやり直すことで今よりもいい作品作りは出来るはずだ。責任と覚悟を身に着ければという話という注意点つきではあるが、意識が前向きになれば、次回は今回よりもよい作品が出来上がるのではないだろうか。
あくまで希望的観測であることは否めない。