ここしばらく著作権という意味だけでなく、アーティストの権利を守らなくてはいけないということに多く遭遇する。
些末なことから結構な大事になることまで。
権利意識という問題ではなく、表現者が表現をすることに対する尊敬がないから起こることであるとも言える。。
自分もプロデュースをするという立場から、彼らの権利は守られて然るべきだし、むしろ守る側にたっている。この場合、どこに抵触するから問題になるというような権利主義的な問題ではなく、ここで考えなくてはいけないのは、表現者が表現をするのにふさわしい状態を構築し、なおかつその表現が社会的に思想的に賛同できるのであれば、これを全力で守るということが必要であると思うのだ。
そのため演出家、振付家、俳優、舞踊家、舞踏家などの僕と関わりにある人々が、少しでもその活動を認知され、また表現が踏みにじられないように。また、その他の創造者となりうる人たちの妨げになるものから、創造するということ、そのものを守るための方法を考えなくてはいけない。
この国の現状として、創造をするということに関しての尊敬はお金以外の価値では計れない。まことに残念なことながら、それ以上の精神性を持っていないのが現状だ。
場合によっては、守る側の立場がその善意から出る行為により、クリエイトしたものを踏みにじることもある。これは、一重に意識の低さから来るのではないだろうか。
創造をするということに対しての価値基準を設定できないのだ。
果たして、これは経済的なことに対しての問題ではなく、抽象化されたものに対しての評価が出来ないということに繋がる。
物理的、具体的なことに対しての価値基準や判断は、実際はその周辺事項である価値の創造によって作り出されたものからしか判断できず、抽象化されたもの、異化されたものについては、それを尊ぶというところまではなおのことたどりつけない。
確かにお金に関してのことはとても大事だ。
動かせるものも多くある。それによる実行力も重要な要素になってくる。
ただ、そこが問題でもあり、それは本質ではない。
表現に対しての尊敬をなくしては成立しえない芸術において、芸術はそこから広がる無限の想像力にこそ、存在しうるものであるはずだ。
趨勢はより安易で分かりやすいものに流れる反面、人と繋がるための方法を模索している人たちがいる。
これを繋ぐデバイスはメディアではなく、アートこそが出来ることだと僕は思っている。
そのために今できることはなんだろう。
本当はもっと研究や実践やナレッジをためていく場所が必要なのだと思う。
terraceはその役割をしているはずだが、まだまだ足りてない。
地域と芸術。
これが今後のもっとも重要なテーマになる。
人の集まるところ、そこの真ん中にあるべきはメディアではなく、アートがある。
そんなところを目指して。