以下に書いたものは、今日のTwitterに書いたことを細く修正したもの。
表現の根っこの部分の発露は、下部構造となる情報や知識のプールが必要。それらを抽象として扱うことで、発想となる。表現の形になるまでは、さらに複数プロセスを経て、淘汰され、再現性のあるものだけが、表現となる。そのためには、ただの情報への反応に終わるのではなく、情報を咀嚼、反芻して知識化したものにしなくてはならない。
情報の知識化とは、情報への理解が深まった状態を指す。ただ、見聞きしたことではなく、それを他者がわかるように説明する。などのように、自己の中へ定着が必要である。そして、知識をさらに抽象化し、応用できる状態になったものが教養である。教養化されたものは、情報を取り込む時に使われる。
情報、知識、教養の段階は、さらに新しい情報を取り込む時に螺旋を描くように使われる。新しい情報と教養化されたものを照らして検証することにより。より複雑なものが扱えるようになる。情報リテラシーは、まず知識化の糸口を作ることであり。そのためには、それがどのようなものなのかを知ろうとすることから。
文学的な知識や教養、数学的な知識や教養、その他なんでもが、全てに応用可能なプロセスとなりうる。ただし、抽象化したものは、本来の形を捨てていることもわすれてはならない。無理に当てはめようとすることは先入観となり、知識化を阻害する。あくまで理解の助けでしかなく、検証や反証が示せないのであれば、教養を有効に使っているとは言えない。
情報とは刺激であり、その刺激に対しての反応の蓄積は、もっとも原始的な思考の端緒であるが、高度な判断を伴うものについては、この方法論は役に立たない。特に危険度をはかるようなものであれば、尚更使い物にすらならない。また、予測による刺激に対しての反応も知識のプールが満たされていない場合。概ね、的外れに終わる。
発見、仮説、検証、理解。このプロセスは情報を扱う上で重要なことだが、検証は忘れがちである。特に、発見から、理解へのプロセスのジャンプも多い。これは、見たものをそのまま考えなしに取り込もうとすることから出てくる問題である。刺激に対しての反応の蓄積をしても情報は情報はのまま、何の進展もなく身に付くこともない。
教養化していくことについては、二つの方法論がある。一つは、自己との対話による深め方である。もう一方の方が一般的な方法で、他者との対話による知識の教養化である。過去の哲学の聖人たちの方法論は、主に後者である。一つの情報に対しての問いと答えが常にあり、そこから導き出されたものが後世に残されている。
思考のループを深めていくとき、人は内なる他者との対話と、他者との対話という形を繰り返しながら、理解を深めていく。人間が社会的な動物である要因の一つであると考える。それらの積み重ねから、一つの言葉や表現、行為を選び取り、積み重ねていくものである。
経験は教養とはイコールで結ばれない。時間も教養の高さとは結ばれない。情報を受け取ってからの発信が短くても長くても、内的な時間を見ることが出来ない限り、それがどのようなプロセスを通ったものなのかは、判断は出来ない。
内的な時間の経過は、外的な時間の経過とは違い時間軸である。
情報、知識、教養。これらの段階的プロセスは、さらに個別に発見、仮設、検証、理解の4つのプロセスに分解される。加えて、反芻が必要であるため、段階は無限に存在すると考えるべきだ。
Kei Ito liked this on Facebook.
Shoichi Ayada liked this on Facebook.
Masako Seki liked this on Facebook.
Hiroshi Watanabe liked this on Facebook.
Hachidai Iwamoto liked this on Facebook.
Yorihiko Natsuda liked this on Facebook.