一昨日のイベントの現場で歯車は歯車足りえようとして歯車足りえるのだと言うことと、歯車は最初からはまる場所が決まっている。用兵の基礎みたいなことを実感しながら徹夜現場をこなして、なんだか過酷なスケジュールの合間を縫って、昨日、風琴工房の「機械と音楽」を観に行く。
今日のワークショップの準備やら照明のオーダーシートの締め切りやらをぶっちぎって観に行った。
そこまでして観に行った甲斐のある作品だった。
ロシア革命期におけるアヴァンギャルドの世界的余波については、僕が語るべきではないので勝手に調べて見てくださいませ。
いくつかの点で面白いなと思ったことをだらだらと書いておこうと思う。
チェーホフの桜の園との連続性。
時代性として、連続している時代なので当たり前のことなのだけれども桜の園で出てくる思想や情勢とその風景から連続して見られるパースペクティブな視点で考えるとどちらの作品も更に面白く感じられる。理想や妄想、妄執、そして現実。
ある意味では桜の園の後の世界で起こる同じような出来事とも言える。
建築家は点に始まり面に移行していく。
ル・コルビジュを例に出すまでもなく、同時代の建築家たちは発展段階を一つの構造物からそれらが並ぶ都市という面に向かい展開していっていた。そのことが登場する建築家の会話の中で進化していく過程がわかりとても面白い。そして、これはこの作品にとっては集約して見るポイントだとは思わないのだけれども、それすらも丹念に描かれていたと思う。
この国での現状との類似点。
出演している俳優と話していて、この物語のリアリティは現代のこの国の状態とさほど変わらないのではないかという感覚。ロシア革命ということについて語るには僕には知識が乏しいのだが、バブル期を革命時期だとして、その後のスターリン政権への流れを現代の日本に当てはめて見えてくる類似性。端的な点で言うのであれば、建築ラッシュとその後の資金不足による計画の頓挫。そしてモニュメント的な建築物の乱立。これらのことだけでなく情報に関しての統制や社会の機械化の破綻のほころび。スケープゴート。似たようなことは常に起きていて、僕の知らないだけのことなのかもしれないがそれらのことがうすら寒い思いをさせられた。
僕は舞台照明という仕事は、太陽や月、火と言った自然の中にあるものへのあくなき挑戦なのだと思っていた。ある意味では今も戦っているとも言える。
たとえば、倉庫の隅にある小さな窓から差し込む明かりに照明は無力だ。技術的なことを言えば近しい光源で近しい明かりは作れるとしても同じように雄弁に空間の意味性や時間軸について語る明かりを作れはしない。あくまで模造品でしかない。
そのことを知るためにストラクチャー(構造物)に興味を持った。
調べていくうちにメキシコの建築家でルイス・バラガンという人に行き当たる。光の建築という代名詞を持つル・コルビジュはどうもなじめないと思ったのだが、このルイス・バラガンの太陽や時間と融合していこうとする様の美しさたとえようもない。残念ながら未だ彼の建築を生で見る機会はないが模型や写真では何度もお目にかかっている。
偽ものでしかない、舞台照明という分野がそれでも面白いと思うのは、偽ものではあるがそれそのものでしかない自然光に対して、舞台照明が果たすものはまるで違っていて観客の頭の中に見ているものと違う世界を作り上げられるということだ。舞台芸術というものは見ているものと違うことやものを観客と共に作り上げる芸術だからだ。
話が逸れた。彼に行き当たったおかげで点から面への移行や、建築家という人たちに少しだけわかった気になれた。そんなところでこの作品を見ていたのでこれはこれで相当スノッブな見方であると思うけど、そんな見方すら出来る作品だった。
もちろん登場する人物に起きる出来事に終始して見ていてもとても面白い。
ただ、もしも知らないことやわからない言葉があってもそれらを疑問に思わずにそういうものだと思って観た方が面白いと思う。そんなことで目の前で起きているドラマを退屈なものに変えることはないのだから。人と人との関わりあいを見ているだけで十二分に見ごたえのある作品になっていると思う。
残念ながら、演劇は賢者の楽しみでもありうる。
こと、これに関しては致し方ない。
賢者というのは識者のことではない。有識であっても賢いとは限らないのだ。
そこに起きていることに対して、いかに器を広く受け入れられるかということが賢者足りえることなのだと思う。
この点に関しての勘違いを払拭しないことには、せっかくの良い作品も台無しになってしまう。
よくシェイクスピアやチェーホフが難しいと言われるが、そんなことはない。演劇を見るときに重要なのは関係性の中にある常識であり非常識、彼らの中にある世界を体験することだ。台詞ではなく、行為を追いかけていくことにより、そこで起きていることがより身近に体験できる(もちろん技術的なことや作り手側の問題がないとは言わない。)はずだ。
そんなわけで観劇をしてご機嫌で飲みに行き、家に帰り照明のオーダーシートを描く。
これは本来僕が関わる作品だったものをちょっと浮気をしていたので、他の人に振ることになってしまったことに対しての贖罪だ。
どんなものであれ舞台には愛が必要だ。非常に残念ながら、それが感じられない明かりに照らされていたものを見て、これまた別の人に明かりを作ってもらうために必要なオーダーシートを描く。なんだか賽の河原のようになってしまっているがしょうがない。
それがなんとか終わり、今日のワークショップの準備をして、羽田へと向かう。
今回が福岡の宇美町に来るのは今回のメンバーの中で僕だけが始めてだ。
前回のワークショップは実際結構厳しい状態だったということもあり、緊張してワークショップの準備をする。
コーディネーターなので、初っ端の司会が済めば、後は進行を見守りつつ、プログラムどおりに進行できるのかどうかをジャッジし続けるのだ。
危うげな状態を続けたまま、創作へとワークショップは進行していく。
創作は全体を3チームに分けて行うことになったので、各チームに一人ずつ補佐として付く。僕も入る。
他のチームに比べ、僕のチームは活性が非常に低いチームでグループワークもぽつぽつとしか意見が出てこない。
口火を切ってくれた一人に続けて、促していき、形をカオスな状態