なんとなくばたばたと1週間がすぎていく。
余裕なくて、なんだかわからなくなることしばしばなのだけど。
--とっても長いので注意!
丁寧に進もうとか、なんや余計なことをかんがえる。
実際には考えるというほど具体的な事象なのではなく、中途半端な状態で頭の中をぐるぐるしていると言う感じだ。
なんだろなぁ。こういうのって。なんて思ってたら…
友達と話してるときに、なんとなくこれかなぁ、てことに気がついた。
恐怖感みたいなもの。
いつでも新しいことをするときに、自分の立ってるところ足場を確認しないと怖いものだ。
その足場ってのは、たいしたことではなく、ふつーに僕が僕であること。
上滑りしている上澄みでなく、どこを切っても金太郎飴のように僕自身ってことだ。
そんなのいつだって変わんないじゃん。
って思うかも知れないけど。
自分のことを理解することや感じたりするためには他者性が不可欠なのです。
自分がどうなのかという答えは社会的なところでは他者性に頼ってるわけで。
だけど、決して他者から見た自分が僕自身であるって事でもないのです。
居る場所をごっそり変えてみたので、自分が外部の情報を受け取るための受け口みたいなもの、あるいはその基準がまだないってこと。
舞台照明家ではない僕というのではない僕は誰なんだ?っていうことなのだと思う。
何者でもない自分を見失ってるとそんなことを考えてしまう。
そう難しいことでもないのだけど、焦ってるとなんだかわからないことなるのだ。
至極簡単なことで、
えぇい、ままよ!
ってやっちまえばよくて、それ以上の事でもない。
飛んだ先のこと、かんがえても予測はできないのに、なんかちょっとした見えないところに気がついて、飛ぶ一瞬の躊躇が今のばたばたした感じを作ってるんだなぁ。
ということだ。
どうであれ僕は僕以外には成れないのだということということなのですなぁ。
なんて、とりとめのないことを思いついて考えちまったのでメモがわり書いておこうと思う。
思考の途中から書いてるからまとまってないことこの上ない駄文になってる。整合性もないし。
ぁい
うん!!!
落ち着け!!!
あにぃ
要は、すげー簡単なことです。
感じたり考えたりする軸の部分の自分を見失ってるから、わたわたしてんだなぁって思ったつーことです。
落ち着いて、よく聞く、見る、話す。
コミュニケーションの基礎的なこと。
出来てねー!!
ちょっと落ち着こう。
なんか難しい感じだ~!!!
きぃ。
あーぁ、名前書いちゃうしw
ま、いんだけどさ。
新しい自分探しなんていう、ニューエイジなことがしたいわけでもないのです。
この僕といういいかげんな存在が存在しえているのは、他の人たちが周り居てくれたからだと思います。
揺らいでるのは、知らないことがあるところに来ちゃったから、知らないことで埋め尽くされてる世界で自分が何を基準に動いてるのかがうまく捉えられないということなの。
んで、なんとなく、そういうことじゃなくて、もしかしたら今のままで何か変化をすることを求めるのではなく。
自分自身をもう少し信じて、自分を見直すことをすればいいのかもしれないと思った次第。
足元を見て、相手ときちんとコンタクトを取れば、おのずから立ち位置は決まってくるし。その後、その立ち位置が不満なら動けばいい。
簡単かつ単純な話。
他者っていうのは、人類とかっていうものではなくて、自分自身を含めた自由にならない存在を他者として捉えていると思う。
人の飼い猫だったり、物語の登場人物だったり、木であったり、地面であったり…
なんでもいいんだ。
他者性という言葉から、それは周りの人間そのものを指しているように感じるかもしれないけど、認知できる他者というものでありさえすれば対象はなんでもよくて、そこに生まれる関係性というのが他者性ということに言葉としては限りなく近いものだと思う。
哲学の用語の解釈としては、正しいかどうかわからないけど、それが僕の考える他者性というもの。
他者との会話や行為から出てくる相対的な相違や相似から自分自身の姿を見出すという行為が必要になってくるわけ。
それでしか、人は在り様を判断できないからね。
きょん
自己の変革や認知という点で他者性が不可欠。
というか、すでに他者に会っているという前提での自己の確立ということなので、もしも実際の存在があろうとなかろうとそこに他者は存在するのだ。定義上。
他者が実際に居たとしても、先入観で見てる間はそこに居る他者は実際の人物とは違う存在であるということにもなる。
認知の仕方次第では、周りの人間の見え方は変わってくるというくらい危ういものだったりもする。
その認知の方法や手段の上での自己の軸というか、芯としての捉え方をどこにおくのかということなのだ。
難しいようだが、自分が何を基準に動いていて、どこに向かっていて、なんでそうしていて、どう動いてるのかの検証をしなくてはいけないという話。
Anne
んだな。
これが自分だという自分の存在というのは、非常に危ういもので、簡単にアイデンティティ喪失が起きる。
認知している世界はどう多面的に捉えようとしても、更なる広がりがあり、それはどうしようもない。
だから、それを仕方ないという諦念と、常ならざるものとしての自分というところで自分がどうありたいのか、どこに向かいたいのかという未来でしか、自分の今の立ち位置は図れないのかもしれない。
アイデンティティ。
他者から見た自分のアイデンティティはせいぜい反省材料か、検証にしか使えないと思う。
自分が自分であるという思考の果てでしか、アイデンティティなんてのは存在しない。
逆にそれがたゆたっているだけの漂流物であり、他者から見たアイデンティティなんてのはくその役にも立たないとでも思って生きるしかないのかも知れない。
所詮は、過去の人にならない限りアイデンティティの固定化はできないのだから、サナギなんて言って逃げてないで、とっくに成虫になってしまってる自分をそのままグロテスクであっても受け入れて進化していくしかないのではないだろうかね?
りょーちん
あざっす!!!
っていうか、よく読むな君たち。
とても失礼だけど。
自分で読むのがいやになるくらい長いっていのに。
そして、コメントも長い。
面倒だな。
哲学的な話というほど、高尚なものでもなく、ただの垂れ流されている思考なのに。
読んでくれたことに感謝。
少しでもいい世界にって思って基本動いてるから、
きっと徐々にまた新たな伊藤馨が顔を出してくるよ。
伊藤さんにとっての、広い部分での他者は人類なのかなぁって感じたりするのです。お話してると。
でも一歩一歩進んで行くときは、目の前の一歩を確認するための他者の存在も必要だよね^^;
出会ったもの、出会ってない世界が自分を動かして行くなぁと感じる事だらけです私は
ばたばたすぎていく時間。
ちょっと暖かい日にでもちょっとお散歩でもして
ゆっくり時間もすごしてね!
同感!!
これが自分だ、と思っている自分さえも自分ではない。
環境が変わるとそんな風に感じます。
他者の評価の確立されていない見知らぬ土地で
急激に立ち上がってゆく新しいアイデンティティ。
サナギを抜けるような気分になることも。
ま。サナギを抜けるとまたサナギなんだけどね。
あたしの場合。
新しい自分に会うのは恐いよ。
まるでなくなってしまう様な気がするもの。
自己とは他者性が不可欠だけど
少し逆を思っているかな。
だって自分以外の全てが滅びた時でも
誰も居なくなった時でも、きっと変わるもの。
だからこれまで出会った人じゃなくて
まだ出会っていないものや人が自分を創ってる様な気がする。
語ってもーたw
すまぬ、ただのきょん哲ですww
俺もさっき見てびっくりした(笑)あ、俺居るじゃん!って。
髪の毛切ったよ。
仕事変えたし爽やか系に。
てか、童顔強調なのは内緒。
あかねさんのブログの写真に馨さんいらして少し驚きました☆(勝手に驚いただけです)
髪切りました?
若くみえました(^-^)