楽日から準備

さて、東京公演は無事に終了。

今回はいいこと尽くめかも。

青井陽治さんに褒められた。

知的だってさ。

褒められると嬉しいけど。

普段ならそれだけ。

作品がすばらしいといわれることのほうが何倍も普通は嬉しい。

でも、作品も評価され、自分の明かりがその一端を担っていて、かつ褒められるとなると。

自分が作ったものをすげーなぁって思ってる人に褒められるとこんなに嬉しいものなんだなって思った。

そして、照明以外のこともしてるけど、舞台照明のデザイナーという職業がやはり自分のメインの仕事なんだと実感できる。

そのメールが転送されてきたのは、池袋の路上でのことだった。

2度も3度も短いメールを読み直した。

あまりに嬉しくて涙が出そうだった。

いつでも、青井さんは僕の仕事を褒めてくれるけど、こんなに嬉しい褒められ方はないと思う。

少なくとも、機材や環境に負けないデザインができた自負もあるけど、それは自分の中のことだけ。

あんまり嬉しいから、その場でちょっとジャンプした。

なんだか子供っぽいけど、夕暮れの池袋の路上でジャンプしたら、嬉しいのが自分の中に落ちた。

もっと上を目指そうって思った。

名誉欲ではなく、誰にでも伝わる表現を探し、自分にしかできないことをもっと手に入れよう。

僕が愛する作品達がより輝きを増すように。

もっと知性を、知識を、教養を、感覚を、多くの人と触れ合い、深く愛することで研ぎ澄まそう。

僕は文化という部分での先端に居ようとし、居ることを望む。

隠者の持つランタンのように闇を照らす明かりになるように。

それは、照明だけじゃない。

舞台表現とその他への広がりも含めて。

僕の持っている演劇教育の団体はterraceっていう。

照らす。

そんな意味は最初に考えてない。

terraceの庇になろうって思ってた。

庇で悪天候から、守り、育てるっていう意味だった。

でも、照らすのもいいかもしれないと思った。

今日は、コレオグラファーの早川さんと打ち合わせをした。

観る事以外でも、表現には関われる。

少し触れることで見方は全然変わっていく。

表現は世界を繋ぐし、広げていく。

決して、表現は思想の走狗ではない。

それそのものとして遥かに尊いものだ。

表現しかできない人たちが思想の走狗に表現を使うのをやめて欲しいとホントに思う。

そんなことをしていては、いつまで経っても同人のような世界から抜け出せない。

表現に思想が滲んでくるのは止めようが無い。

それはいい。

思想のために表現を使うのをやめて欲しい。

より深い人間の根幹に関わる部分に表現はある。

だから、それを使っている責任をもっと自覚するべきだと思う。

僕にだってイデオロギーはある。

自我の先の無我。

なんて、話が逸れた。

そんなわけでご機嫌で京都への準備をする。

何が来ても楽しみ、わくわくできるだけのシステムがもう出来た。

次はそこで現れる創造性に僕が振り回されたりしないように。

核はなんなのかをはずさない強い心を持とう。

雨でもご機嫌なのだった。