僕はきっとあまりエコな方じゃないと思う。
マックとかで買い物するときは紙袋をひとつだけにしてもらうけど、それは昔観た映画で紙袋に入ってるのがかっこいいと思ったから。
それを片手に持って、移動するとかそういうの。
コーヒーがブラックなのも、タバコを吸ってるのも。
かっこいいから。
ま、ただの勘違いなのだけど。
それは気がついても気がつかないことにして。
ちょっと隣の人を気にかけるのの延長線上に平和はあるし、きっとその課程エコみたいなもんもあって、全部同じことなんじゃないのかな。そう思ったりする。
僕の理念としては、ちょっとかっこいいことをするために隣の人に優しくしてみたり、仲良くする。
まず自分があって、その先に他の人に繋がる何か。
手前の自分の面倒をちゃんと見てから、他のことに手を出さないと何も変わらないような気もするし。それに、何かを否定する前に、そこにあるものがどうしてそうなってるのか、という理由がわからないことにはアクションが出来ないと思うから。
エコじゃない僕は大量生産の産物を使う。
紙を消費する社会とPC使いまくって紙を減らす社会。
実際に、紙以上の別のエネルギーを使うことになる。
そこには必ず希少性を伴うことが起きてる。
俗に言う、経済だ。
単純にいいものを求めたり、おいしいものを求めたりという体や心の欲求を満たすためには、なんらかのエネルギーを消費してるのだ。
だからと言って、アーミッシュみたいな生活をするつもりもないし、アボリジニみたいにも生きられない。
それは仕方ないかな。そう思ったりする。
たとえば、今の僕からPCが無くなったら、何か出来ることが残るのだろうか。
また、芸術は必ずしもエコではない。特に、照明さんなんてことをしてると余計にそう思う。たくさんの科学の力で僕は生きている。
そこを認めた上で、どう妥協して現状を打開していくのかということが問われるのだろう。
ま、ちょっとしたエコロジーがかっこいいということになれば、少しはましになるのかな。
結局、自分が出来ること。
しかも手元で手が届くところに目を向ける。
そういうところから、なんだって始まってるんだよな。
近くの人に挨拶をする。
仲のいい友人を思う。
そういったちょっとしたことを積み重ねて、世界は今よりも科学の力も借りて、狭くなる。
江戸時代の人たちと比べて、僕達は生涯に出会う人間の数はありえないくらいの人々と出会うことが出来る。
人と繋がる、認める。
そういったことが世界をその先に進め、僕らに次の世界を見せてくれる礎になる。
大事なことやものはなんなのか、ちゃんと考えて生きないともったいないよな。