心は誰のものでもない。
ただし…頭や体や他の人によく支配される。
しかも、簡単に。
すべてを意識下に置こうとすることで世界は文明化してきたと言えるかもしれない。
そうすることの負荷をどこで受けとめるかということを置き去りにして。
人は残り香も含めて、昔よりもはるかに多くの個体と出会えるようになり、それらを流体としてではなく、固体としてとらえようとデータとしてとらえようとする。
人というもののデータ化はとめどなく進んでいる。
本来、人はデータではなく流れる水のように変化するものだという事実を忘れて。
過去にアップルの1984というCMで流れた管理社会は今まさに見えない形で顕現している。
各個人がデータとして管理し易い形で人を扱うこと。
それがきっと過去に暗示されてきた管理社会の本来のなのではないのだろうか。
圧倒的に大きな他者からの支配ではない。ごく身近な自己による支配。もっとも厄介で手に負えないものだ。
最近の研究で意識は0.5秒遅れてくるらしい。
人は意識だけで動いてるのではない、それだけでは心が追い付かない。心が追い付かない体は生きてる体にならない。
大事にしまってばかりもいられない。多くの個体触れ、感じることで強くなる。
傷つくことは仕方がない、ものだって使えばすり減るのだ。
本当はすり減るだけではない。
すり減ったところが強化されることもある。
ちゃんと動かしてちゃんと使う。ただそれだけでいい。
もともと簡単なこと。
時間をきちんと過ごすことで、その経過を上手にためていけば、よりよく成れる。
価値は常に変化し、外的なものよりも内的なものの方がより高い価値を生み出す。それが流体としての本来の人の在り方ではないか。
天賦の才は計れないが、その価値は常に変化する。
人の周りのことは経済学で判断出来ても人は経済学では計れない。
だって、人の中身には希少性はないのだからね。