自己存在の確かさを確認するためには人が必要。
人間は子供の時から遭遇する他者を増やすことによって、他者性を身につけていく。
他者性は、自今存在の確立に欠かせない要素だ。
自己存在の不確かさというのは、現代の抱える問題のひとつだ。
自己存在の確認というと難しいかも知れないけど、簡単に言ってしまえば、自分の体や心がどこにあるのかの確認のようなものだ。
手っ取り早い方法として、愛する人と体を触れ合うこととかで確認が出来る。
相手の温度を感じることで、自分の温度を確認し、触感は自分と相手との境界線を確かなものにする。自分自身の温度を確認し、体感することより簡単だ。
触れることの充足感は、自分の中に実感として、相手という存在を認識し、認識してる自分を体感することで、自分の心を認識できる。
これは、自分自身が変化する状態にあるものだという意識化においてのことだ。
自分自身をデータ(情報)として扱っている場合や、相手をデータとして扱っている場合にはその限りではない。
なぜなら、データとしては体も存在するし、心も存在する。データとしての体や心のやり取りでは、何も体感しない。
体感しなければ、そこに他者性は生まれない。そこには成長も変化もない。
自分の欲しいデータを相手に見つけ、同化して、自分というデータが逸脱している個体でないことを確認しているだけに過ぎない。照合しているだけのことだ。アイドルの誕生日が自分と相性がいいことを確認して喜んでいるのと大差ない。
目の前に居る相手の内面を想像し、意識の交歓をし、初めてそこに快楽が生まれる。
エロスは人間が持つ成長した知性を守るための手段だと思う。
集合知性としての人間の集まり(社会)を成立させるための方法論のひとつ。
演劇という表現芸術はそこに特化したものであると言える。
社会における演劇の役割のひとつがみえてくる。
もっともらしいな。