ワークショップコーディネーターと舞台照明家

ワークショップを生業の一つにしていて、思うのは、「主体がどこなのか」terraceのワークショップにおいては少なくとも、講師ではない。受講者が本来の主体。
なので、主体となる受講者たちに体験してほしいことと、その体験に寄り添い一緒に歩けるのかということが、とても大事なことになってくる。

ワークショップのコーディネート団体を作り、ワークショップコーディネーターという名を名乗り始めてから15年以上経つ。
きちんとリサーチをして、講師がしたいこと、主催団体がしたいこと、受講者がしたいことを、きっちり見極めて、フェアな創造環境を作るのが仕事。
僕たちは何をやるかをあらかじめ決めなくてはならないけど、それが受講者とマッチするのかどうか、単なる教授にならないのかを気を付けないといけない。
同時に、一番気を付けるのはオーソリティみたいな顔をしないこと。受講者と僕たちのことを一番よく知っている人というのは、存在しない。
私たちはプログラムの前に平等だし、フェアでなくてはならないと思う。
さて、長くなったけれども、ワークショップコーディネーターと舞台照明家の仕事は、本当によく似た仕事だと思ってやっている。必要十分のものを用意し、講師や受講者に過不足なくワークショップをしてもらう。
舞台照明の仕事も照明を作品に合わせて、過不足ないようにして、公演を行う。
どちらにおいても、伴走することも大事なことだけど、ワークショップという企画をパッケージに整えていく仕事が必要になる。
無駄な手をなるべく減らしたり、参加者や俳優のために関わりやすいヒントをわたしてみたりもする。
演劇は、誰かと協力しないと出来ない。近い誰かだけではない、最終的には観客にも協力してもらわないと作品として仕上がっていかない。
人と人の間にある揺蕩っているものこそが演劇のすべてだと、僕は思っていて、それには直接明かりは当てられないし、ワークショップでも触れることが出来ない。ただ、そこにあるということを示唆することが、演劇が社会から与えられた使命の一つなのだと思う。
促したし、指し示したり、体感してもらったり、それは言語というものだけでは獲得出来ない何かであり、また、獲得した人たちが他の人に伝えようとしても難しいものだ。
人とのかかわりは繊細なもので、情報量がとても多い。その情報量をふるいに落として言葉に転換出来たものが伝えられるもので、それ以外は受け取った人の中に残るものだ。
とっても不安定で曖昧なものではあるものの、その場に居た人たちは質の差が出るとはいえ、身体の記憶に残るものになる。
もう長いことワークショップという現場に関わらせてもらって、人が持っている可能性よりも人と人が結びつくとき、手に取る時に生まれる何かというものこそが、社会であり演劇が一番活躍できることだと確信している。
僕の舞台照明の考え方の根幹は、光源や角度、色味などの仕掛けよりも、考えたプランと俳優がどう関わり、それを観客がどう見るのか。そして、それを見られた俳優やそれを仕込んだ自分がどう受け取るのか。という、少し遠い往復運動の中にこそ、照明のプランというものがあると確信している。
たった一つのライトと俳優の関係性を見せることで、観客はどう感じるのだろうか。
ある意図をもって、考えたり積み上げたりするものの内容によって、受講者はどう体感するのだろうか、
こういったことを日々考えて、計算して積み上げていく。
当然、先に用意することは出来ない。用意はして忘れる。その瞬間に必要なもの欲しいものを提供出来るように準備をする。
人が何かを生み出そうという気持ちは。「ある光」であり、それはこういった場のあちこちで輝く。それこそが未来であり、今そのものなのだと本当に思う。
照明の仕込み図を描くように、どこで何を伝えたら、気が付いてくれるだろうか。それとも当たらないでスルーしてしまうかもしれない。どういう言葉がけをしたら考えてくれるのか、隣の人に何かを伝えてくれるのか。
本当に日々考えている。二足の草鞋としてワークショップコーディネーターと舞台照明家は、かけ離れているようだけれども、人との関わりとその間にある揺蕩っているものを見続けて、それをどう扱うかを考えることほど面白いことはないと思う。