共通言語

ここしばらく、よく聞かれる「共通言語」。
よく、っていうのは、僕の界隈でのことだけど。
ここで話しているのは、具体的な言語ではなく、ある種のグループにおいて相互に了解が得られる言語という抽象的なものだ。
僕の考えにおいては、結論から言うとそんなものは存在しない。
他者と自己の境界を越えて理解が出来る言語なんてものは存在しえないし、仮の脳と脳を繋いでイメージを共有しても(想像しただけで吐き気がする)、そのイメージが何を意味するのかまで共有するとなるとかなりの騒ぎだ。

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厄介なのは、例えば色に関してだと、「赤」という色を見たときに、その人が記憶している色をイメージする。視界に入ってくる色には、大きく分けて二つ「透過光」と「反射光」、そして彩度や色相によって色は変わる。大雑把に「赤」とイメージ出来るところまでたどり着くまでにいくつもの階層を乗り越えないといけない。その人が持つ記憶の中の色の在り様は、色にまつわるイメージの中で印象の強いものが紐付けされる。一つのイメージにはこういったいくつもの階層が付随していて、そのどれもが感情的なものと結びついている。
他者との境界線を乗り越えやすくしてくれる言語というツールは、その人自身の生活体験や経験によって蓄積された情報や知識を他者と共有するためのものではあるが、魔法のようにお互いが理解しやすいものを形成するのは非常に難しい。
経験上で言うと、母語を異にする海外の人たちと作品を作っても、母語が同じである日本の人たちと作品を作っていても、そこの現場においての「共通言語」は細い糸から手繰り寄せて行きながら、少しずつイメージを共有していくしかない。この時に必要とされるのは、「言語」ではなく、相手を理解しようという「意思」や「気持ち」が大きいと思う。
クラスタが同じメンバーで創作を行っていて、分かりやすいアイコンの話をしていても、そのイメージが相互に理解できるのは相手のイメージを「わかる」「わかろう」という意思があるからであり、執拗に共通のイメージを追い求めるのではなく理解できるもの理解できないものを切り分け、時にスルーをすることで成立していることが多い。
母語が違うもの同士の創作の方が、ある意味で「言語」の違いがそのまま境界として表れているので、切り分けが楽だとも言えるかもしれない。
同じ言葉で理解し合っていることはほとんどなく、共有できるイメージの交感の素地を持っているかどうかにかかっているのだと思う。これは自分自身だけのことではなく、相対する相手も同様の気持ちを持てるかどうかにもかかっている。
とはいえ、相手の言葉を理解しようとしても思考のイメージが言語の形までたどり着いていない、ないしは語彙がないために言えないということもある。何かを完全に表す言語は存在しないという割り切りが必要となる。
言語というものは一人ひとりのバックグラウンドがあって成立するものなので、誤用も含めて、相手の話す言葉が何を指しているのか、どういう意図があるのかも考えなくてはならない。

14310385188_fcf9e4e132_m 伝える側が自分の持つ語彙を限界まで駆使して相手に伝えようとすることが必要となり、受け取る側にそれに相当するだけの語彙の量が必要になる。そのために重要なのは日本語の場合は整理に適している文語が重要となる。共通言語に最も近いものであるとも思う。
文語による知識のストックの上に、直接他者と会話をするための口語というものが存在しているのだと僕は思ってる。