移動しながら暮らしている。
ま、住まいと仕事の場所が2つあり、両方での動きをしているから、当然移動は多いのだけど。
もともとスナフキンみたいな生活をしていて、この場合スナフキンはあっちこっちにムーミン谷があると仮定してというわけなのだけど。
スナフキンは冬眠の期間だけ居ないんだけど、僕の場合は基点となる場所すら曖昧になっていて、一人旅団のごとく移動から移動を重ねている。
とはいえ、今は住まいであるいわきが基点になってはいるのだけど、これが思いのほか帰って来れないとストレスになる。
過去に住まいとしていた場所は一人であったこともあり、帰れないことに対してのストレスなんてのは変わらなかったのにな。と不思議に思う。
正直、田舎には暮らせない。ハイスピードで暮らしているから。と思っていたのだけど、既に都会には昔のようなスピード感は無くて、コンプレックスな感じの方が強い。現状では地方に来て、そこの人のスピードを観察して、そこから何か作れないか。という可能性を探していくことのほうが面白いのではないかという感覚に変わってきた。
ま、何より料理をするのでそこでの野菜がおいしかったりとかということも、重要だったりするわけなのだけど。
だいぶ前からやってる顔の見える何かっていうのが、こっちにも汚染してきていて、実際はここまで近いとそれはそれで意味があるな。と思ったりする。東京ではやり始めたときはなんだかな。と思っていたけど。行こうと思えば行ける畑で作られているものを買うのと。なんとなく顔だけついてるのは結構違うもんだ。
そういう意味で顔の見える何かを作っていくことというのは意味のあることなのかもしれない。そういうコミュニティの中、生活の中にある、表現や演劇というものを再構築できるのではないかと。
東京というコンプレックスな都市に飲み込まれて行ってしまった。僕の故郷を望み。
再生の手段を地方都市という場所で、別の形で何かを構築しようとしているのはとても複雑な気分だ。
結局、失われていくものを何かで残そうという反面、それを使って何かを構築していこうということをしている。
tokyoっていう都市の集合体ではなく、東京の中野の江古田っていう狭い地域で育った僕のイメージできる地域コミュニティとは別の世界観で次の世代のコミュニティ構築が今の大きな命題だと思っている。
地方でのワークショップを受けていくときも、それが必ず裏側のテーマとして存在している。これだ。という確定的な形はなく、場所によって頼るものが違うのだけど、そうして何かを繋げていくデバイスの役割が出来れば、この一人旅団にも意味があるのかもしれない。