たまには写真もアップしてみようと思ったので。勝手に上げてごめん。
昨日は恵比寿のsiteというところで白さんのパフォーマンスを見る。日曜までやっている。面白かった。
自分的爆笑ポイントだらけなのだが、どうもまじめに見ていらっしゃる方々のじゃまをしてはいけないな。と我慢してしまった。
ちなみに移っているのは青木美歌さんというグラスアーティストの作品。ガラスの粘菌とか微生物はガラスなのにやわらかくてはかなくてとても綺麗。
おとといからちょっと山場だったので、よい息抜きになりました。
一昨日からミーティング三昧の間に授業、またミーティングなんてことをしておりました。
スケールが来年度のことから、来週のことまでとスパンが広いので、時間間隔がおかしくなりそう。
一昨日、人からの紹介で初対面の人と作品に関わるかどうかも含めて、ミーティング。
昼間インタビューゲームみたいなことをしていたこともあり、聞き出すという回路が全開で話はじめてしまって申し訳なかったな。と思ったりした。
最終的に公演の話からひどい地滑りをしていって、社会のシステムにおけるジェンダーと、身体におけるジェンダー、また、その齟齬をクリアにしていくために必要なことは何かという話まで話がスライドした。
自分なりの性について感覚は、男性も女性も身体的にハンディキャップがいろいろあり、また精神構造、脳の構造についても差異がある。
それらを考慮に入れて、そもそも不平等であり、不公平な状態であるという認識をもって、相互扶助の精神を持ってケアをする社会やコミュニティを作らねばならないのだと思った。
これは、関わるところ全般に言えるところなのだけど、経済力や環境、性別、その他もろもろにおけることを含めて自覚したり、それをケアしていくことというのが不可欠でそこのところに触れることが出来れば、システムとしては若干カオスな感じがするけど、ある種の共同体という考え方が出来るのではないだろうか。
江戸時代の女性の手記などを見て、彼女たちの環境は現代と比べて、決して自由と呼べる物ではないが、誇りも自由もあり、それらを謳歌している。こう書くとそれがいいことのように感じるがそういうつもりはない。彼女たちは自分の領分や扱いに対しての自覚があり、その中でどう生きていくかという考察と哲学をもってして、そこに立っているからなのかもしれないと感じたわけだ。
社会的に男性と女性が果たす役割がカオスになっていくことで、個々の役割や方法論は選択肢が増えたと思う。体や脳の構造はそれに追いついてない。
現代でも日本は男性社会であることについて異議はない。システムが男性的であるという意味では今後もあまり変わらないだろう。
このシステムを再構築すれば、男女が公平、平等になりうるのかというとそういうことではないと思う。
システムの問題というよりも、単に人として波や考え方が違う人たちがいるという認識をもつというような根源的な思想のあり方なのではないだろうか。
ま、ふといろんなことが混じってそんなことをいっぱい考える3日間だった。