っていうものがあるらしい。
自分の仕事の半分はwebサービスを利用したものが大半であるのだが、glideOSみたいにデスクトップ環境を共有するというのは、webストレージとどのくらい違うんだろう。ちょっと試してみたい。
今のところ、テスト運用しているこのブログも普通のHPのように使えるみたいだ。
terraceの発信用の情報ポータルにするためのシステムを作ろうと思っていたのだけど、まだイメージが出来ていない。
立体を扱うこと、そして3次元という縛りを常に受け入れるということを仕事としているので、この擬似的な複数次元を同時に扱うというシステムに慣れないので、なんでも試してみるしかないやな。
そう思う。
演劇は平面のものを立体化して、もしくは他の次元を3次元化して表現し、体感するものだと思っている。
そこには、縦、横、時間の3軸がある。
これを仮想化した世界がこういうwebのようなものなのかもしれないと思ったりもする。
情報が肥大化し、摂取する情報量が爆発的に増えていったときに成長期を迎えていた僕らはそれらをほぼ抵抗なく、情報の増大を歓迎し、受け入れてきた。
そして、いざここまで増えた情報量のやり取りを処理する術がおいついてないことを体感する。
そして、新しい世代たちは僕の接触する非常に少ないサンプルから得る情報として、情報に対しての処理を放棄し、混沌を混沌のままに受け止め、流されるという選択をしているかのように見える。
情報に対してのリアクションやスタンスがその人格をある程度決定し、個体の自立や自覚を促すということをして、あるいはされて、自分に与えられている情報から選び取ったものが自分を形成し、必要とあれば人工的な自己像を形成し、役割として行うというのが我々旧世代のあり方であったと思う。
そこには反抗、反対、否定などがあり、そこから選んだものから答えを形成し、それが自らを個と成しえているんだろうという思考形態が、既に解体され、平面的に情報を受け取り、それらを広がりなく立体感のない世界として並べる。そこには構築という概念自体がない。もちろん解体や再構築という概念もない。
立体を必要としない関係は、そこに肉体や思考、精神というものを排除して作られている。
簡単で既視感のあるもので構築された消費される世界というのが、そこには存在する。
そこにはグループしか存在しない。
ただの複数個でしかなく。
カンパニー、コミュニティ、ソサエティというものは形成されない。
社会という言葉を使うのにはおこがましいものを社会と呼んでいるが、これは社会ではない。
たまたま偶然集まったグループでしかない。
グループ内に起きる関係性というものはある程度の自立がある状態で寄り添ったりして、ずれたり、いがみあったりなどの関係の変化を伴い自覚してからコミュニティというものに発展していくのだと思う。
目的の自覚や、志向の自覚がないままに集まっている状態はグループというか集まりでしかない。
社会というものが、そもそも崩壊しているのに一般化された共通項がそれらを結びつけ、社会のような物を構築しているだけなのかもしれないというところまで考えてうすら寒い思いを感じた。
経済というものは、希少性のあるものの運用に関わるものの変化を扱う学問だと僕は習ったし、そう思っている。経済活動はお金の稼ぐことではなく、それら希少性のあるものに対してどういう活動を持ってそれを処するのかということが本義だと思う。
それじゃあ有償ボランティアとかチャリティという感覚は理解が出来ないわけだと妙に納得して、今日は止めておく。