googleリーダーでうろうろしてたら、大学の授業についてということが載っていた。
自身の考え方としては、この考え方については賛成しかねます。大学という施設は、高等教育機関であり、研究を兼ねている。
あまり突き詰めると選民思想になりかねないとは思うのだけれども、学校というものは教育の機会を与える場所であり、自らが率先して学ぶという行為に参加しないものは、無駄金を落としていき教授や生徒に有益にその資金が使われればよいと考えます。これはどのレベルにおいても同じことであるとは思います。小学校から大学院まで教育機関のありようとしてはあまり変える必要がないと思うわけです。
ただし、義務教育について言えば、そこまでするのは聊か乱暴すぎるとも感じるので、学ぶことへの興味を教えるという時期でもあると考えてもいいかもしれません。
とはいえ、高等学校以上については教育者サイドが生徒に対して必要以上に寄り添う形で行うというのはあまりよくないのではないかと思ったりします。
義務教育以降で教えるべきプロセスとして、自学自習というスタンスを教えることと共に自立した一人の人間として学問とどのように向き合うのかということを考えさせるプロセスが必要なのではないかと思います。
ワークショップという媒体を使用して、教育に程近い部分に携わっている身としては環境作りや段階の構築はするものの、受講の段階で参加するという意思を持っていることというのが前提でプログラムを構築します。完全にというわけではなく、あくまでも前提という考えで。
その上でワークショップ上で構築される創作の出来、不出来は参加者全員の意識の高さや方向性によって形づくられるものであると思います。
参加する意欲というのがないのであれば、参加する必要もなく、また学ぶという行為は主体的な行為であり、客体とてしての行為ではないわけです。
というわけで、学生は授業料を学ぶ機会に対して払っているのであり、研究のためでもなく、上手な講義のために払っているわけではないです。
学ぶ機会とは、同じ志向を持つ学生と席を共にする機会であり、高度な知識を持つ先達に触れる機会であり、その他大学の施設を利用する機会などを指します。
客体として、言い換えるならば消費者として学びの場に居ることが出来る場所というのは、学ぶという主体的な行為からは逸脱していることである思います。
消費者とはあくまで消費者であり、サービスを受ける側という意味合いですが、学生はサービスを受ける側ではありません。その場を構築する参加者であり、その場を活性化させる要素をもつものであります。ただの消費者として、そこに居られるということは参加者にとっては甚だ迷惑だと思います。
ワークショップをやる側の立場と大学の教授は立場は違うけれども、似通った性質を持つので反応してしまいました。
消費者としてしか関われない者たちをどうするべきかという問題は、きっとギリシャの昔から言われてきたことなのだと思います。自分が学べない理由を他に求めるというのは自分を守るために良く使われる論法ですし、そういうものです。
教育機関において、扱われるものは情報と知識と教養がある思います。これは日常でも同じかもしれません。
これは僕の個人的な情報処理の考え方ですが、
情報はただの情報で事実であったり、言葉であったり、情報はただの情報でしかなく、身体性は伴わないものです。
知識は情報を自らに取り込み、解析し、理解したものを知識という身体性を伴ったものになってきます。
教養は、知識の集積により、それらが横断的に扱えるように応用されたものが教養です。
教育機関で教えられるのは、情報であり、知識から教養まで情報を深化させていくプロセスは個人に委ねられます。
情報から教養までの深化のプロセスは教えられるのではないかという考え方もありますが、これには複数のやり方があり、人にあったやり方を自分で模索するしかないように思うので、これはまた別のことではないかと思います。
ちょっと気になったからコメント程度書こうと思っていたのに、面倒くさいことになってしまいました。
いやはや。