ワークショップおしまい

ぶふー。
つっかれたー!!!!

神奈川の高校演劇連盟ワークショップ終了。

250人はさすがに初めてだった。
コーディネートなので基本は進行を担当。

いつもどおり雷親父ポジション。

2日目の創作では身体表現に音声表現が伴ったリーディングインスタレーションを作った。
なかなかの出来映えに一生懸命みてしまった。

びっくりしたのは、他者性、客観の欠如。
寝ることや遅刻。
自分で好き勝手したいという意識の制御の無さ。
笑ってしまうしかないのは、2日間の連続ワークショップに2日目から参加して、昨日のことを説明してくれないのは不親切なのだそうだ。
そうなってしまうのも、情報が処理が追い付かない状態でひたすら情報を受け取りやり取りに追われている消費者であるということが主な理由なのかもしれない。
身体化された言葉や人に触れられずに育ってしまったのだろう。

他者性の無さは連帯という感覚が持てないということにも繋がる。
他者が認識出来なければ、当然なのだが。

僕らのワークショップはディスカッションを中心として構築する。
他者の中に自分を見る感覚と集合知性の体感的な理解を促すためだ。

また、細かく時間を切って創作に当たることが多い。自分達でゴールのイメージが出来るのであれば、課題を与えて、要素を追加するだけでよいが、自力でゴールのイメージが出来ないときは、時間を切って、短期的なゴール設定していく。
これは短期的な目標に対して効率よく要点を絞った議論をするための最も簡単な手段だ。
当然、ゴールのイメージなんて作れないので今回はぶつ切りのディスカッションでした。

演劇は人に始まり人に終わる。
人の有り様の捉え方を持ち寄って、形にするアートだ。人から離れたところにあるとすれば、虚空に描かれた絵のようにあるかないかわからないところにあるものと変わらない。

その有り様を伝える術を持たないものに渡す技術はない。まず向き合って、その先に技術がある。
それが出来なくても演劇ができるという幻想はどこから来たのだろう。

昔はそれでもまだ成立していたのだろうが今はそうもいかない。

演劇の果たせる役割を、演劇の持つ可能性を、演劇は演劇を再考する時期にきているのだろう。

大袈裟に言うなら、人は人の有り様を根元的なところから考えないといけない。

そんなことを考えさせられるワークショップになった。