生きるというタスクがもっと大きくて激しかったとき

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cross road 2013

生きるというタスクがもっと大きくて激しかったとき、人はその営みの中に美を見いだしてきたのだと思う。それは、単なる伝達の手段であったり、ある種のルールであったり、効率であったり、儀礼であったり。そのどれもが洗練されていくなかで、我々人間は文化というものを形成していく。それは、内側に向かう自己の探求と外側に向かう他者とのコミュニケーションにより作られたものだ。
現代の我々の思考や理論は、そういったものの積み重ねの先にあるものだ。
美しさとはなにか。
この美しいいう漢字も、大きな羊を表している。
この時が作られたときの意味合いから離れ抽象化されて、美という今の意味を持つ言葉になっている。
本来の意味を知ることで、それが時代の背景を知ることにもなり、またその言葉がたどった道筋には人の営みが隠されている。
それを知らずに使うことは出来る。
ただ、知った上での言葉とは重さが違う。

よく学び、知識を得。
よく話し、教養を得る。

ただ流れてくるものは、ただの情報である。
それらの理論や変遷を学ぶことで、知識となる。
知識は溜め込んでいても、情報を取り込んだだけである。
その知識を他者との交歓によって、使い、もう一歩深めたときにはじめて教養になる。

ただし、我々の時間は短く、すべてを手にいれることは出来ない。
自分の芯となる部分を探し、他者の教養に触れることで、より多くのことを手にいれる事が出来る。
哲学や美学、芸術に触れることは、自分とは何かという人類の永遠の問いと向き合う機会でもある。

映画とか演劇とかって、ほんとに知識というか、教養がないと、物事を抽象化して捉えられないから、とてもつまらないんだろうな。って思う。終戦のエンペラーや風立ちぬを見たけど。そこに流れるものがわからないなんて、本当に可哀想だなぁ。娯楽を求めて口開けてる人にはわからぬよ。読み返したら、とても上から目線な気がしたけど。実際に上から目線なので、致し方ないのか。という、開き直りしか出てこなかった。その奥を見通す目を持たずに、二元論で見てるから批判しか出てこないんだよ。史実とかいう割には歴史ちゃんと知らないし。あれ?って思ったら調べりゃいいじゃん。簡単よ。

何かの表現に対してのアクトアゲンストするんだったら、ちょっとぐらいはその背景を想像するべきだと思う。
そして、それがどうして、その表現を選んだのかを考えなくてはいけない。
考えたり、調べたりは、非常に簡単に出来る。
ただ、その基盤知識は時間をかけて形成しないと作れない。
それでも、簡単に手をだせるところからでいい。
ほんの少しずつでも手に入れる努力をしなくてはいけない。

哲学や美学、芸術、そういった事柄は腹の足しにならないとよく言われるが、最終的なところで人の力になることだ。
それは、最初であり、最後だ。
きっと、獲物を追ったり、様々な作業をしている間に、人が手に入れた、最も重要な力は、美を探すことにある。
それを理解することが、生きることの一つの目的。

He who seeks beauty will find it,
 

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