誕生日なので。

いろんな人からメールやらメッセージやらが来ている。
ありがたいことだなぁ。と思う。
自分が今までの人生で出会ったたくさんの人から受け取ったもので、今の自分が構成されていると実感できる日なのだね。誕生日という日は。
本当にありがたい。
「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。」
そう習い育てられたが、孝徳は積めてないと思う。
敢えて毀傷しているし。子孫も残していない。
少なくとも、他人のこどもたちでも次代に残せるものを作っていこうとはしている。
舞台という場に身を置き、照明という本当に人間の眼にしか残せない視覚を扱うことを生業としている反面、それでは残せないものを少しでも文字に記し、次代に残すことが出来れば、そして、もしも叶うことであれば、それが何かの礎とならんことを。と、思う。
今、まさしく本番中で。自分がプランした明かりの中で俳優たちは歌い、踊り、そこに存在してくれている。
明日の楽が終われば、それははかなく消え、観てくれた人の記憶にだけ明かりは残る。
それはそれは幸せなことなのだ。その場にいる人たちと同じものを共有し、たとえそれが同じ目線ではなく、受け取り方でなくても、何かを共有していくことの美しさは生き物が持つ偉大な機能だと思う。
一方で、僕は学校に行って、ワークショップという形を借りて、共有しあうということの意味を探している。
舞台芸術の方法論の内、自分が知っている数少ないことを駆使して、形作っているそれは、まだまだ歪な形をしていて、欠けたものだと思っている。その歪な形でも記録として残すことで、次へと繋ぎ、今僕らがやっていることの先に進めるように地ならしが出来ればと思う。
不思議な縁だが、今年祖母が亡くなり、祖父の教え子と出会う機会に恵まれた。
祖父は教育学の教鞭をとってた教授で、今でも本が残っている。その本を読む機会もあり、祖父の功績についての研究論文も読んだ。血のつながりなのか何かわからないけれども、そこには今僕が理想とする学校との関わりのヒントが書いてある。自分としては、思うところをずばりと書いてある。ほんの十年前まで、教育に関わるとも思わず、また、そんなものを読むとも思わずにいた。
数年前の僕が読んでも、そこに書かれていることに対しての理解はもっと薄いものだったろう。
なんだか、祖父が降りてきて教えてくれたみたいに、とても遠かった祖父の存在が近いものになった。
母方の祖父は印刷の技術者でとても高名な人であった、その祖父の薫陶のおかげで舞台の照明家になる道筋がついたと言ってもおかしくない。そして、時がたち、教育に関わり、父方の祖父の偉業に触れる機会が今だった。
自分の係累の道筋を辿っていくように、少しずつ過去が身近になってきた。
そして、常に探し続けている自分のルーツへの探求が進んでいく。
来年、不惑になる。
その前に今の自分の持てる課題を書き残しておきたいと思う。
今ある自らの知をどうやって共有していくのかということが、まだまだうまくできない。
既知のものをやりとりしてしまったり、置き換えて理解しようとしてしまう。
共通言語というあいまいな言葉ではなく、核になる部分が何で、それをどう正確に伝えられるかが、今の僕の課題である。
まだまだ、自分にしかわからない、身内にしか伝わらない言葉でしか、やりとりが出来ていない。
自分の持てるものを人に託して、更に新しいものを獲得していくことが生きることであり、知の探究なのだと思う。
そのための環境づくりを少しずつでもして、今持っているものを次の世代に残す準備もしていかなくてはいけない。
人生はそう長いものではないとつくづく感じる。そして、両祖父は記録を残すこと、特に母方の祖父は本にすることを考えろと言っていた。どちらの祖父も膨大な量のメモや記録を残していった。自分も同じように出来るだろうか。そして、それを共有できるだろうか。
していくための準備をしていかなくては。
それにしても、自分はなんと恵まれた環境で育ち、また、よい人たちに出会えたことであろう。
今まで出会った人たちに惜しみない感謝と、これから出会う人たちとのよき出会いを願って。
明日をよき日にするために、また一歩進みたい。

2012年10月21日 伊藤馨