あの前と、あの後。

と、あることがきっかけで、舞台の業界に入った。
それはとても大した理由のないことであった。

誰よりも観ることが好きだったわけでもなく、むしろ作ることに興味があるからこそ。
この舞台の世界に来た。

そうして、いろんな人に迷惑をかけて、いろんな人に励まされて。
未だに何者にも慣れていない自分だけども、もっと何者でもなかった僕はこの世界で暮らしている。

縁を頼って、流浪をしていく中で、いろんなことを学んだけれども。
12年前に起きた、あの事件の後、人同士は絶望的に分かり合えないということの先に進まなくてはいけないと思った。
そして、時が流れていく間に、どこかに杭のように打ち込んで自分が立つための立ち返る場所が必要だということをいつしか思うようになっていく。
それは、情報をやりとりする手段が圧倒的に増えていき、しかもそこでやりとりされる情報の量的なものが肥大化していく中で、それらを捉え、捌き、流していく中で、絶対に必要なものだと感じたからだ。
同時に、現実に身体の置かれる場所に対してのこだわりが減っていった。
日に日に長大な情報を処理していく中で、処理をしていくことで存在が認められると錯覚をしてくるようになった。

どこでもなんでも出来る。

それは今でも変わっていない。
ただ、それとは違う。
今よりもっと浅薄で、裏返してしまうと、そこじゃなくても出来ることをしていた。

情報は、それらを咀嚼し、知識として身につけ、運用できるようになって、教養となる。
そして、教養こそが人をカタチづくる。
情報をただいっぱい集めて、咀嚼しなければ、それはただ布をからだに巻いているだけのようなものだ。
どこかからほどけていき、いつかは裸になってしまう。
それを恐れて、また新しい布を巻きつける。
気が付くと、巻かれた布で周りが見えなくなってしまうような状態になる。

高高度情報化社会。
もしくは、情報資本主義。
情報に価値が付き、それらが多様な価値観を作りだし、多様な生活スタイルを生み出していく。多様性は生物にとって必要なものである。
本来、情報は咀嚼されて知識化し、既知のものにしていかなければ、価値を生み出さない。
大量の情報を流すことで、それらの量的な価値を情報の価値としている。
情報を知識化するための手間を省くことで、仮の価値を生み出している。
それらが常態になっていくことで、すべてのものを情報として扱うようになっていく。
人と人の関係性も同様だ。ただのデータとして、扱っていく。

そんなところに、昨年のことがあった。
そこで、もたらされたのは、また同様にデータ化された何かである。
実際には、データとして扱うには、人と言うものは情報量が多い。
結果的に集合知を手に入れるための方法をみんなが模索し始めたところでもあると思う。

一方で、また、そこへ情報という観点で、人を両替していく手法も広まっている。
これには危惧することが多いにある。

あれから一年半経ったけれども、状態はあまり変わっていない。
どころか、悪くなっている。
大量の情報の中に、重要な事柄は埋めていき。それらをタイムカプセルのように、閉じ込めている。

演劇は、直接、人とのやり取りをすること。
特に、人が持つ知識や教養を共有し、より大きなものを手に入れるための重要なツールとなり得る。

演劇の持つ本来の機能を持って、蒙を啓くことが、演劇に課された使命だとは思うが、現状ではそれ以前にただの娯楽ではなく、芸能界とは違う事など、解かなくてはいけない誤解がいっぱいある。

そのためには、見てもらうしかない。
人が集まり、まだ見ぬ正解のない課題に対しての一つの中間的な結論として行われる演劇を。

この国で芸術がするべきことはたくさんある。
ただ、それは人が自らと向き合うための助けであったり。
それは、他者と向き合うための助けであったり。
そういうことだと思う。