この間、ネットをこどもにアクセスさせない方がいいって書いたけど。
更に、もう少し考えてみた。
ネットというのはツールであり、それはカッターナイフやチェーンソーとかと同じようなものだと思う。
使い方を知る必要があるのかないのかといえば、知っているにこしたことはない。というか、使えないと困る場面が多いだろう。
とはいえ、自我の状態が追いついていないのに使うのは危険だ。というのは、この間書いたのと、変わらない。
しかし、その制約をどうするのかというのは、PGみたいなものでは行けないと思う。
個人に繋がる端末から発信されるものは、限りなくプライベートであり、またパブリックなものだ。
その切り分けを知るための実社会での身体性がなければ、わかるものではないし。
それらを扱うための精神の発達がある程度の状態になってなくてはいけない。
当然、端末を与える与えないということはあるだろうが、それは家庭教育によるもので、それを規制してはいけないし、また、それらを家庭から切り離すための施策などはあってはならない。
これは、字が読めない人に合わせて、使用漢字を減らすことと同じで、智の発展を引き留める要素になり、また、新たな規制の糸口になる。
人を育てること、とりわけこどもを育てることにおいての手抜きをするための規制になりかねない。だからといって、parental controlのようなことでもない。
僕が考えているのは、そもそも触らせないということだ。
ネットなんてものは、ある種の繁華街みたいなもので、歩き方を知っていて、正しく歩いている分には問題がないもののはずである。
危険がありそうな横道は避けるべきだし、それらのことを知るための経験値を積み重ねてから、そういう場所に行くのが不通ではなかろうか。
逆に危機回避のため、それらの使い方を教えてしまえと言う人もいるだろう。
自我が未発達な状態で、危険なことを覚えられるわけはなく、また、自己と他者が未分化な状態では、集団性の中に個がより埋没することになり、倫理規範が欠けた状態を作りやすい。
そうしたことを回避するため、また精神の発達を促すためにも、大人側の現実世界での子どもに対しての対応で処理するのが妥当であると考える。
具体的には、子どもだけで触らせない、情報端末はロックをかける。
そういう対応が必要だ。
アクセスレベルを分けたり、アカウント管理のようなヴァーチャルなことで対応するのではなく、こういったリアルでの対応が必要だと思う。
それらをしないこでいたずらに使わせることは、欲しがる子どもに対してのただ単なる子どもに対しての迎合であると思う。
危惧しているもう一つのことは、上記のヴァーチャルな対応は、アカウント管理に繋がり、結果個人情報を統制管理するための一歩に繋がるし、管理された状態で生きることに慣れさせる一歩にもなる。
自分で考えて、それらを扱うための素地を育て、同時に他者の権利を守るという観点からも情報教育は安易に行うべきではないし、端末を持たせることもよいことではない。
そんなことを台風一過の街中をうろついて考えてみた。