大して何か書きたいことがあるかというと、そうでもなくない感じがずっと続いている。
インプットの時期がすこしずつ過ぎて、アウトプットに転化していく時期になってきたってことなんだろう。
僕の年間のサイクルではいつものことだ。
んで、生まれて初めて、福島市に来た。
満塁鳥王一座の公演の顔合わせのためだ。
つい、一時間ほど前まで、散々ぱら演劇の話をして、郷土についての話をしていた。
自分の郷土っていうのは、江古田であり、それは、中野区の江古田であり。
小さい神社があって、小学校が二つあって、中学校が一つある。
都会の中でどこか置き去りにされてきたような東京の一地方のことなのだな。と、話しながら思った。
これは、いつでもだれにでも言っていることではあるのだけど。
改めて考えても同じことなのだと思った。
そんなことは、さておいて。
今日なんとなく、ツイッターに書いてしまったことなのだが。
やっぱりどうにも釈然としないことがあるので、書いておこうと思う。
と、言ってもメモ程度のことで、それは別になんか意味があったり、対象が具体的にあることではない。
ここのところ、とてもぼんやりと考えて、とても不安で怖いことなのじゃないだろうか。
そう思うことがある。
それは何かと言うと「頑張ること」だ。
何かを必死にすること。
一つのことに拘りを持つことに対してのある種の美意識を持つことが少なくともこの仕事をしていく上で、とても大事なこと。
そして、そのためには拙さや恥ずかしさ、怖さを乗り越えて、自分自身を頑なに張るという行為が必要なのだと思う。ちょっとした言い訳で出来ないことを肯定することで、自分の弱さを糊塗したり、隠したり、逃げたりすることは、生きていく中で自分を簡単に裏切る一つの方法だ。
限界を超えてやれるところまで、気を張ってやって、やりすぎて誰かに止めてもらう。それが当たり前のことなんじゃないかと思っているのだが。どうも、その手前で自制しろとか、自重しろ。とか、そういうような空気というか、流れが見える。
倒れるまで頑張って、死ぬほどやって、それでもまだ足りない。そう思って前に進まない限り手に入らないことはいっぱいある。そんな壁にあたって誰の手も伸びてこない絶望感も存分に味わって、苦しんでも前に進むことが、生きていくためには必要なんじゃないだろうか。
自分の居場所感や自己肯定感なんていうのは、そういう価値ある絶望感の先にしか存在しないし、そんなののずっと手前でほめてもらいたいなんて、おこがましいにもほどがあるというものではないだろうか。
周りの人間を大事にしたりするのは、当然のこと。十全に気を配っても、そんなのは出来きらないのが当たり前だし、目が届かないところもいっぱいある。それで人を傷つけることもいっぱいある。一方で、それが届かないことが当たり前なのであきらめる。なんてのはお門違いも甚だしい。
自分も自分の師匠に、汗水垂らして、なりふり構わずにやりたいことを、思う存分やってしまっておかないといけないと言われて育ったけど、まだ出来てない。まだ、必死な振りしか出来てないんじゃないかって思う。でも、その孤独な内省があってこそ、今の自分が形作られていると思う。
出来ることを出来るようにやることは一つとても大事なこと。
ただ、無謀とも思えることに挑み、困難を乗り越えることを、真剣に少しの遊びもなくやることの方が大事なことなんではないだろうか。と思うのだ。
正解のない無限に考え続けても答えなんかない問いを常に抱えて生きることが自分にとっての生きること。
こんな、他愛のないことを深夜に考えている暇があれば、たまっている原稿を書く方が圧倒的に大事なことではあるんだけども、何かを吐き出さないと次のことが出来ないのであった。