RENTを今観てる。繰り返し繰り返し。

RENT【映画版】をぼんやりと何回も見ている。
やらなくてはならないことはいっぱいある。
でも、今、見なくては行けないって思う。

どうして、そんなことを思うのかを考えてみた。

RENTの中では、AIDS。

元のラ・ボエームの中では、肺病。

何かが世の中を侵していく。

そこには、偏見や差別、恐怖がある。

これを見ることで、僕は力をもらっている。

僕がちょうどまだ高校生くらいのころ、RENTの舞台は幕が上がっている。

当時のヤリたい盛りの僕らにとって、最大の恐怖はAIDSだった。

AIDSと放射能はよく似ている。その反応の変化が特に。

現れる症状として似ている部分があると僕は感じている。

専門家ではないし、本当に詳しいことはわからない。

それに、本当に身近な人たちがそれに侵されて死んでいったわけではない。

それがなんなのか知る術をまだ持っていなくて、ただただ怖かったのを覚えている。

コンドームが完璧な防御になるわけでもなく、キスは出来るのか出来ないのか。

そんなことすら心配だった。

そして、この病気の怖さばかりを伝えられて、みんな少しおかしくなっていた。

小説、映画、漫画、いろいろなものの題材になった。

でも、どれもどう対処すればいいのかは教えてくれなかった。

その前のチェルノブイリの時も同じだった。

放射能とAIDSがよく似ているというのは、世間の反応が似ているということだ。

(当然、症状が出るまで状況がわかりにくいことや、免疫不全になることで、複合的な病気にかかりやすくなることも似ているとは思うが、やはり専門ではないので、よくわからないので言及しない。)

周囲の人は恐れ、ヒステリックになり、差別する。

当事者は、その環境や怖さから、ヒステリックになり、差別を強調する。

お互いの歩み寄れる点を探すことをしていかない。

結果、その時間ののど元を過ぎることで、なんとなく無いことにしてしまう。

そんな中で何が怖いのかって言うと、それらに対しての怖さや不安を乗り越える術を、本来は持っていたはずだし、理性に頼るのであれば、怖いものではなく、より冷静に対処が出来るはずだ。

そのためには、お互いがお互いの環境や状況を踏まえた上で、慈愛や寛容、時にユーモアで結びついていくことが出来るんじゃないだろうか。

I’ll cover you.
ANGEL
Live in my house,
I’ll be your shelter,
Just pay me back
WIth one thousand kisses
Be my lover
and I’ll coer you

Open your door,
I’ll be your tenant
Don’t got much baggage to lay at your feet
But sweet kisses I’ve got to spare
I’ll be there and I’ll cover you

BOTH
I think they meant it when they said you can’t buy love
Now I know you can rent it
A new lease you are my love, on life
Be my life

不安感から、信じやすいものの一つの価値観や主義を押し付けるのではなく、また、様々な人の言葉に耳を傾けることをしなくてはいけないのではないだろうか。

現在の僕たちが置かれている状況は僕が生きてる時間の中でも「社会の状況」という意味で、最悪極まりない状況なんじゃないだろうかと思っている。

本来、僕たちが持っている人と繋がるという機能を新しく出てきた電子ネットワーク(と言っても20年近く、これらを使っているわけだが。わかりやすくインターネット。という言葉でもいいけど。それも違う。厳密には。)との折り合いを僕たちは未だに付けられないでいる。これらのツールは誹謗や中傷のためにあるわけではない、また、管理されるためにあるわけでもない。そして、疑似的な繋がりを作るためのものでもない。本来の肉体を持った交歓をし、より大きな悲しみや喜びを受け入れ、乗り越えるためのツールである。「1984」で描かれた世界に僕たちはどんどん近づいて行っている。自らの足で。そう。している。

そんなことが放射能よりも僕にはもっと恐ろしい。

人との繋がりや、自らの足元に積み上げられた歴史、自らがそこに居るために必要な要素、自分を構成している仲間たちのことを、考える頭を失くして、自分のことばかり考えて、自分だけが可哀想で自分だけが辛いということを言ってしまえることや、人の辛さを代弁する振りをして、自分の抱える欲望を満たそうとする人たち。

自らが持つよいところや、欠点を見つめ、乗り越えていくことは、独りでは困難だと僕は思う。

他者を鏡としてしか、自分のことは見えてこない。そのために人は社会を作るんだと思う。

これは、人間が理性を能く使って存在していくために、人間という動物が必要とする集合体としての機能なのだろう。そのために誰かが居る。いつも。

ライフサポートのシーンでの歌は、今の僕たちが持っている状況をよく表している。

Will I lose my dignity?
Will someone care?
Will I wake tomorrow
From this nightmare?

でも、こういうライフサポートの環境はまだない。そもそも寄る辺がなく、秘密を守られずに、自由に話せるような場所もない。結果的にそこのシーンの次に出てくるホームレスみたいなことになる。そういうことをクリアしていくために芸術家は居る。目の前にあることをそのまま解決する力にはならない。もっと、大きなものを動かすための力芸術だ。

だからこそ、コミュニケーションを取り、会って、話して、何かを創っていくことで社会に参画していくしかない。信念を持ち、あるべき形を探していく。

[Seasons of love]

How do you measure, measure a year?

In daylights, in sunsets, in midnight, in cups of coffee, in inches, in miles, in laughter and strife..

In five hundreds twenty-five thousand six hundred minutes

How do you measure a year in the life?

How about love….?

生きている時間は限られている。

時間がない中でも、こうして何かを見ながら考えることも大事な時間。

誰かが誰かを思うことも、大事な時間。

この人生というリミットのある時間の中で何が残せるかわからないけど、一つ一つのことを繋げていく。

そのために、少しずつでも時間を作って、人に会い、何かを積み上げていく。

それが何かはわからないけど。

そして、何かを残していく。

だから、少しでも多くの時間を人に使う。

 

I should tell you.

something , everything.