MDの伊藤馨です。
愛媛県西条市でのコミュニケーション教育事業の実施が始まります。
それに伴い、実施に関わる準備に追われています。
さて、今年度実施の西条市のワークショップですが、団体としてのキーワードは「言葉」です。
昨年度までは、コミュニケーションの中の身体性についてを重点的に扱ってきました。
身体表現よる創作を、話し合いを積み重ねることによって、積み上げ構築していくプログラムを実施してきました。
それを踏まえて蓄積した経験とデータから、コミュニケーションを身体性から「言葉」へと考えるポイントに変化してきました。
いまや、社会的な問題である「いじめ」や「不登校」に対しての演劇的な観点から学校に関わった上でそれらのポイントになるものは、一つには変化なく身体性を持って相手と接するということがあります。更にもう一点、新しい要素として、聞く(受容する)、話す(発信する)という二点の関係性を再度考えなおすことにし、「言葉」をよく扱うということが重要なのではないかと、考えています。
「言葉」をよく扱う。というのは、単なる発語や表現力という点についてではなく、言葉を使い、対話、会話を行うことを、「言葉」に対して無意識で触れるのではなく、それがどういう意味を持ち、どういうことを伝えていくのかという意識下において、「言葉」を扱うということです。
「言葉」には、普段使っている言葉や、本などで得る言葉など、様々な言葉があり、我々はその言葉により思考し、論理的な思考により、様々なものを構築していきます。
それらをワークショップの中に取り込み、一つの言葉の意味あいや、連なる言葉の関係性などを意識的に操作し、それらをどういうプロセスで取り込んでいくのかを話しあうことによって共有し、そこから一つの形を形成していく中で、「言葉」に対する感覚を養い、体験的、体感的に「言葉」の持つ奥深さに触れる機会にしていきたいと思います。
また、人が持つ「役割」に注目し、それらを明確化していきたいと考えています。
外部講師として、学校に入るときに、自分が社会的な役割の中でどういった職業にあるのかを明確化する。
役割で接する関係においては、感情的な「好き」「嫌い」という単純二値による判断を超えることが可能です。
役割においてする発言には、役割がその責任を負うことになり、個人的な存在という意味あいで傷つけたり、傷ついたりすることがありません。
これらを強化する意味で、外部講師は役割を明確化します。
「俳優」「演出家」「劇作家」「舞台照明家」などの、本義的には教育者ではないという役割を明確化することで、教員との差別化を図ります。
このことで、教員という「教育」に特化した職業に対しての敬意を払うとともに、自らが教育者ではないということの戒めとします。
教育者ではないということは、あくまでも役割上のことで人生経験を積んだ大人としてこどもと接するという点については、別な社会的な役割としての「大人」というある種の範となるべきものであるということに準じます。
こどもたちにおいては、グループワークを行うことで、いつもの関係性の「個人」から、創作グループという集団の中の「ひとり」という役割を持つことにより、「個人」がそれまで持っていた関係性を超えた協力や共有を行っていくことを考えています。
ワークショップというものは、参加体験型学習という言い方に置き換えられたりしますが、単なる知識量を多くしていくというような学習ではなく、その中で起きることの質的な向上が主体です。また、その得られたことについてや質的なものは、自我が未発達なこどもたちでは価値判断を自力で行うことが難しいものです。
そこで体験したものや得たものを近しい他者(教員、保護者)へと伝えることにより、その価値判断をしていきます。
単体で完成していく知識の獲得型のものではないため、近しい他者に対して、起きたことを話したり、それらを評価されることで、その価値判断を形成していきます。
つまり、日常性の中においての価値判断により、ワークショップというものがどういう形でこどもたちに受け入れられていくのかということが大きく変わっていきます。
知識の獲得を目的とした学習においては、こういう変動的な性質はあまりないはずですが、体験的、体感的に理解していく学習としては、この変動性が必要です。
もし、変動がなく我々が伝えたいものが、正確に伝わるとしたら、それは洗脳に近いと言わざる得ないでしょう。価値観の多様性を受容していくワークショップにおいて、一意の価値観に染まっていくというのは、非常に危険度が高いものです。
日常性を共にしない我々のような外部講師は、その責任を負うことが出来ないだけでなく、こどもたちの健全な育成を阻害することになりかねません。
これらのことに留意しつつ、実施を行っていきたいと思います。